灰谷さんを想う

Editor's Museum
小宮山量平の編集室





本来このページは、小宮山量平が出会ってきた作家たちの、これまでの作品、そして何よりも、現在の活動を紹介するということで、用意していたページです。
こちらがその準備にてまどっているあいだに、
灰谷健次郎さんが亡くなられてしまいました。
わたしたちの思いをどう皆さんにお伝えしたらいいか・・・
ここに、その思いの一端を、置かせてください。


今こそ「兎の眼」を・・・
        エディターズミュージアム代表
               荒井きぬ枝
                 (小宮山量平 長女)

教育現場の荒廃の中で今、「兎の眼」という作品を思い起こして欲しい、
そこに必ず何か答えがあるのに・・・、そう思っていました。
そして―――
11月23日、その作者である作家、灰谷健次郎さんが亡くなられました。
2年間の闘病生活で沈黙せざるを得なかった灰谷さんが、お元気だったら何を語られたか・・・。
各新聞がその死を伝えながら、「兎の眼」が今読まれるべきだと書きはじめています。
何も語らずに逝かれた灰谷さんは、もしかしたらその死をもって「兎の眼」を甦らせたのかもしれないと
私は思っています。
信濃毎日新聞(11月24日付)に載った小宮山量平のコメントです。
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「大人が子どもを導く」という長い間の教育原理に対し、「子どもから大人が学ぶ」を原理にして日本で初めて発言し始めたのが灰谷さん。十七年間、子どもの本当の友達として、いい教師生活を送ったのだと思う。「兎の眼」(理論社刊)は、そうした子どもと教師の世界を描いた。今こそ灰谷さんに元気になってもらい、日本の子どもたちのために縦横無尽に活躍してほしかった。子どもの問題を一番大事に考える人を、一番大事な時期に失ってしまった。
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編集者のミュージアムをつくりたい・・・その相談にまっ先にのって下さったのが灰谷さんでした。
児童詩誌「きりん」の出会いから「せんせいけらいになれ」、「兎の眼」「太陽の子」―――、作家と編集者との深いつながりは50年の時を経ても続いていました。
作家の死が近いことを知って、90才の編集者は「あなたの命は私が繋いでいきます」と伝えたのです。

ミュージアムの壁に貼ってある「兎の眼」と「太陽の子」のポスター。若い灰谷さんが笑っています。
棚に置かれた父と一緒の写真は、どれも少年のような笑顔です。
「兎の眼」が刊行されてまもなく父に下さった手紙がのこっています。特徴のあるやさしい筆跡。
“またマツタケを買いに行きました。
 貧乏しているのにこんなもの買うなと
 しかられそうですが送ります。
 ずっと送ります。
 いつまでもいつまでもマツタケが送れるように
 長生きして下さい。
 小宮山量平様
                  灰谷 生  ”
 
―――それなのに、先に逝ってしまわれました。

2006年9月、最後の手紙、
“自分の命は自分だけのものではないことは じゅうぶん
 わきまえているつもりなので、可能なことはなんでも
 やってみる努力はしています。その点はご安心下さい。
 病人のわたしがいうのはへんですが、
 お体だけはくれぐれも気を付けてください。
 どうぞ、みなさまによろしくお伝えください。
               灰谷健次郎   ”

灰谷さんの作品が並ぶ棚を前にして、
灰谷さんの思いを繋げていくために、この場所から何が出来るか、
そのことを探りはじめています。
灰谷さんのことば、灰谷さんの思いが、
どうかたくさんの人々の心に蘇えりますように。

                 2006年11月26日



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